郷土資料にするべきかせざるべきか
越殖民社で有名な関矢孫左衛門
その息子が関矢留作
最近本が出て↓
https://calil.jp/book/4906740235
まぁうちで郷土資料にするか否か
親父さんは長岡生まれで北海道
主に野幌(江別)で活躍して新潟で逝去
息子は生まれが野幌(江別)やけど、
戦前の長岡中→新潟高→東大という
経歴を辿っとんのさな、果たして
中村左衛門太郎
新潟地震が記憶に新しい。
と言っても古い方、
東京オリンピックの年に起きた方だ。
その遡ること15年前ぐらい、
盛んに新潟地震が起きるぞと言って
騒いでいた教授がいたらしい。
昭和25年前後、さぁ調べなはれ、
日報で取り上げられてちょっとした
話題になっとったはずやでと。
まぁ一時期を除き縮刷版を持っておらず、
データベースも平成に入ってからの日報
さんの記事を手っ取り早く調べるのは、
2003年(平成15年版)まで刊行されていた
同社の『新潟県年鑑』を見るに限る。
で前後5年ぐらい当たっていたら
出てきました出てきました。
昭和24年3月ぐらいの記事。
当時の東北大教授中村左衛門太郎氏。
昭和23年7月~9月、12月、
そして同年3月に旧師範学校に
テントを張って観測していたのだとか。
折しも来年は新潟地震から50年。
いろいろ昔を辿ればあるもんや。
宇佐美大膳
佐渡金山を掘るのに石見銀山の技術が持ち込まれたという事実をどれくらいの方がご存知だろうか。
上杉景勝が会津移封された慶長三(1598)年(秀吉が没した年でもあるが)、
この時まで代官をつとめていた8人のうち、河村彦左衛門を除いて解任された。
他方、あくる慶長四(1599)年、加賀の前田利家が、百姓の佐渡渡海を禁じた。
この事実からして、当時越前・加賀・能登・越中あたりから、相当数の人が
佐渡に渡っていたのではないかということが想像が付く(金山ブーム?)
そして慶長八(1603)年(家康が江戸幕府を開いた年でもあるが)、
翌慶長九(1604)年4月10日が、大久保長安同勢130人の
出雲崎より松ヶ崎への実際の渡海である。
この時期、かなりの技術者が、石見銀山から連れてこられているのだが、
また譜代の者たちも、多数奉行として佐渡に渡海しているようだ。
そんな中に一人、宇佐美大膳がいないかというのが今回のお題であった。
残念ながら、これ以上の記述はない。
それでも、どの時期からどの時期までが豊臣(上杉)でどの時期からが
家康なのかということがわかっただけでも収穫だった模様。
ちなみに越後的に宇佐美と言えば、琵琶島城(枇杷島城)を思い浮かべる
むきも多かろうが、そのへんと関わりがあるのかないのかは定かではない。
SCAPINとラッセル法廷とICTY
ラッセル法廷って何だ?
疑問はそこから始まった。
「現代思想」の2000年11月号(28巻13号)
“和解の政治学”特集を読まれるとよかろう。
出てくる。前段が女性国際戦犯法廷などと
出てくるからそっち方面の国際裁判のようだ。
調べている利用者の関心は。
そこにラッセル法廷(於:ストックフォルム)は
1967年5月2日から10日までベトナム戦争における
アメリカの侵略と戦争犯罪を裁こうと、
らと開いた“民間(民衆)法廷”の先駆けと出てきた。
『ラッセル法廷』(正・続)人文書院
うち入ってないんだよな・・・。
ICTY(旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷)は
安全保障理事会決議827によって1993年5月に設置された
れっきとした国際司法機関であり、特定の地域において
特定の期間に行われた犯罪のみを対象とする臨時裁判所
であるから、分けて考えなくてはならない。
だいたいGHQ(東京裁判関連)は竹前栄治先生、
ラッセル法廷は森川金寿先生、
旧ユーゴ戦犯法廷は多谷千香子先生の著がいいようだ。
【参考】民衆(民間)法廷:国際法上問題がある行為が
発生していると考えるNGOや市民等が、
自主的に有識者を集めて構成する模擬法廷
7つの習慣
『7つの習慣』スティ-ヴン,R.コヴィ-著 キングベアー
という人気本があるが、ジュンク堂の店頭で検索したら
“7ツノシュウカン”では出てこなくて
“ナナツノシュウカン”と検索したら出てきた。
アラビア数字はアラビア数字通りと習った仁にはなかなか難しい
名古屋人だと“シチツノシュウカン”と入れても出てきてほしい
昨年の平成23年7月新潟・福島豪雨によって否応なしに呼び起こされた
探しにくる方に“羽越豪雨”や“羽越水害”では資料をヒットさせることができません・・・
“828”と入れた方がまだヒットする
というわけで件名に“平成16年新潟県中越地震”のようなものを入れて
忘れた頃にヒットさせられるような仕掛けを施してみました