宇佐美大膳
佐渡金山を掘るのに石見銀山の技術が持ち込まれたという事実をどれくらいの方がご存知だろうか。
上杉景勝が会津移封された慶長三(1598)年(秀吉が没した年でもあるが)、
この時まで代官をつとめていた8人のうち、河村彦左衛門を除いて解任された。
他方、あくる慶長四(1599)年、加賀の前田利家が、百姓の佐渡渡海を禁じた。
この事実からして、当時越前・加賀・能登・越中あたりから、相当数の人が
佐渡に渡っていたのではないかということが想像が付く(金山ブーム?)
そして慶長八(1603)年(家康が江戸幕府を開いた年でもあるが)、
翌慶長九(1604)年4月10日が、大久保長安同勢130人の
出雲崎より松ヶ崎への実際の渡海である。
この時期、かなりの技術者が、石見銀山から連れてこられているのだが、
また譜代の者たちも、多数奉行として佐渡に渡海しているようだ。
そんな中に一人、宇佐美大膳がいないかというのが今回のお題であった。
残念ながら、これ以上の記述はない。
それでも、どの時期からどの時期までが豊臣(上杉)でどの時期からが
家康なのかということがわかっただけでも収穫だった模様。
ちなみに越後的に宇佐美と言えば、琵琶島城(枇杷島城)を思い浮かべる
むきも多かろうが、そのへんと関わりがあるのかないのかは定かではない。