T_O's eye

個人的メモ

新潟大火(1955)→東堀・西堀の埋立→新潟国体・新潟地震(1964)

まぁ最近東堀や西堀の再生の動きが活発になってきてますけど

ソウルの清渓川(チョンゲチョン)復元事業なども参考にして

 

でも意外と新潟地震(1964)のせいで埋め立てられたと思われてる方もいらっしゃるようで

新潟大火(1955)後の復興まちづくり計画によって、昭和30年代延々と東堀・西堀・他門川

の埋め立てが続いていたんですね。

その後、新潟国体(1964)への利用やその後の一方通行規制へと続く道筋

 

新潟の堀と橋新潟市 2001

尾台榕堂から石黒忠篤、本多文明まで

尾台榕堂十日町市に生まれ、江戸で医学などを学んだ。

いったんは故郷に帰って開業したが、10年後に江戸へ戻り、

師の家を継ぐ。著書も多く、日本における漢方医学の基盤を築いた一人とされる。

てなことをネットのお友達から知らされる。八丁堀界隈に記念碑がたってるとか。

一昨年、全集が出てんだな。もちろんうちも持ってるけどさ、郷土資料として。

 

そういや先週かなぁ、石黒忠篤について聞かれたことを思い出す。

この人は時代も幕末から明治にかけて活躍した人で若干違うけど、

小千谷の出身。何でも乃木将軍の時代の軍医だったとか。

 

ついでに本多文明のことも聞かれた。この人は新津の出身。

 

聞かれた時、ヨミや漢字が違っててちょいと苦労したけど、

困った時の蒲原宏先生で、『新潟県医学史覚書新潟雪書房 1993

鳥湖八景

弁天の夜雨

弥彦の清嵐

中州の落雁

大匂の帰帆

清里の夕照

皆応の晩鐘

上沼の秋月

小張の慕雪

 

を指して言うそうな。

どっから見た鳥屋野潟のことなんかわっかりゃせん。

 

平成22年度第8回水辺とみなとのまち部会(報告)鳥屋野潟の学習会で

元信濃川大河津資料館長の五百川清さんが講演要旨で使っただの、

平成22年度第12回水辺とみなとのまち部会

鳥屋野潟調査と課題の整理(案)景観には出てくんだけどね。

  

笠原一朗先生の『かくして鳥屋野潟は残った鳥屋野潟研究会 2003

宮村堅弥氏の『鳥屋野潟賛歌鳥屋野出版 1985 あたりにも出てこんもん

せいぜい馬場泰治氏が「市史にいがた2号1988.3)に書いた『幻の鳥屋野潟公園計画』(pp.16-35)ぐらい?

それでも“鳥屋野潟八景”で出典が『鳥屋野潟開発懇談会』(案内)亀田郷土地改良区所蔵

 

結局、行きつく先は亀田郷土地改良区かよと

鼻を曲げる

要はヘソをまげる、つむじをまげると同義語らしい。

ただ新潟人はよくはなをまげるを使うらしい。

 

調べてみると「はなをまげる」はひとつの慣用句として

「人に何か言われて気に入らないときに態度をかえること。」

とある。類義語として「はなまがり」(名詞形)が挙がっている。

いずれも今から約10年前に中央区の四ツ屋町で採集されたらしい。

【出典】『新潟県方言辞典 下越』渡辺富美雄 野島出版 2001.5

 

新潟県方言辞典』大橋勝男 おうふう 2003.2 にも同じような

ことが書かれていたから、当地では方言として認識されているのか。

 

ただし小学館の国語辞典レベルや大辞林なんかにも名詞形の方が

全国的用法として載っていたり、方言として認識されている地域も

例えば香川県の三豊郡が挙がっていたりするので要注意だ。

 

ちなみにこの表現を用いた文学作品は時間切れで探せなかった。

新聞・テレビで情報収集(経営・経済)in新潟編

がっちりマンデーはBSN5チャンが購入(日曜7:30~)

プロフェッショナル:仕事の流儀サキどりはOKね

アド街・モヤさまならNST8チャンが購入してんだけど

テレ東系はやぱ新潟ダメだわ(>_<)

ビジネスライブラリアン(BL)講習会の歴史

2004年度 第1回2004年7月8日(木)~9日(金)/7月22日(木)~23日(金)(静岡:マビック静岡市視聴覚センター/静岡県立中央図書館)

2004年度 第2回2005年1月27日(木)~28日(金)/2月17日(木)~18日(金)(東京:虎ノ門第一ビル7階産業NPO支援センター)

2005年度 第3回2005年12月1日(木)~ 12月3日(土)(東京:紀伊國屋書店本社7階セミナールーム/虎ノ門琴平タワー23階会議室)

2006年度 第4回2006年9月17日(日)~19日(火)(北海道:北広島市図書館)

2006年度 第5回2007年2月10日(土)~12日(祝)(東京:三好内外国特許事務所)

2007年度 第6回2008年2月9日(土)~11日(祝)(東京:三好内外国特許事務所→霞ヶ関ナレッジスクエア)

2008年度 第7回2009年2月21日(土)~23日(月)(東京:霞ヶ関ナレッジスクエア)

2009年度 第8回2010年2月27日(土)~3月1日(月)(福岡:福岡県立図書館)

2010年度 第9回2011年3月5日(土)~7日(月)(東京:日本図書館協会2階研修室)

2011年度 第10回2011年11月25日(金)~27日(日)(新潟:新潟市立中央図書館)

経堂

世田谷区に経堂(きょうどう)というところがある。

関東で生まれ育った方や大学・就職で行った方なら

いざしらず関東とは全く無縁な私には知る由もない。

ただ小田急の沿線ねぐらいの。

 

ここの地名の由来を尋ねる質問が飛び込んだ。

いつからだって。

 

結局、角川や平凡社のツールを使ってもはっきりと

したことは判らなかった。

 

でも、江戸時代から使われていたことは間違いない。

幕府から「経堂在家」を領地としてもらったという

記録も残っている。

 

その諸説がなかなか面白いのでざっと紹介しておく。

 

1)中国から帰化した医者が、僧を迎え、福昌寺を

 開いた。その人の医学書が村人たちにはてっきり

 経典が置いてあるものと勘違いされ、その医者の

 屋敷が経堂と呼ばれるようになった。

 【出典】『新修世田谷区史

 

2)開墾期のお堂が関東では珍しい京風の造りだっ

 たため。実際、江戸期の『田園簿』という資料に

 は、「京堂在家」として登場する。また「京道

 と表記されていることも。

 【出典】『新編武蔵

 

3)経典を納めた石室の上に小堂が建てられたから。

 【出典】『新編武蔵

 

ちなみに経堂は昭和7年に世田ヶ谷区になるまで

経堂在家」だった。以後、「経堂町」となり、

昭和40年代の住居表示変更により細分化された。

 

お尋ねの明治38年日露戦争期には

東京府荏原(えはら)郡世田ヶ谷村経堂在家

大正8年に町になって

東京府荏原郡世田ヶ谷町大字経堂在家